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久々白川氏に会いましたので一言お知らせします。
「このまま終わらない。臥薪嘗胆(がしょうしんたん)期を待つ」
春秋(しゅんじゅう)時代の末期(まっき)、闔閭(こうりょ)を王とする呉(ご)の国は土地も肥沃(ひよく)だったため、たちまち勢力(せいりょく)を広げました。その後、句践(こうせん)を王とする越(えつ)の国が勢力を広げてきたため、闔閭は越の国を攻めました。ところが、闔閭は逆に呉軍に破れ、その時の傷が元で死んでしまいました。その後、呉の国を継(つ)いだのは、太子(たいし)の夫差(ふさ)でした。
夫差は父のかたきをとるというその思いを忘れないよう、毎日薪(まき)の上に臥(ふ)して痛さをこらえ、自分の部屋に出入りする者には、「闔閭を殺したのは句践であることを忘れまいぞ」と言わせるようにしました。
数年が経(た)ち、今度は句践が呉の国に攻めてきました。しかし、夫差はこれを破(やぶ)り、句践は会稽山(かいけいざん)に逃げ込みました。句践は、再起(さいき)のためには恥(はじ)をしのんで、一時降伏(こうふく)するしか道はないという臣下(しんか)の范蠡(はんれい)の言葉を聞き、夫差に許しを願いました。
しかし、夫差の臣下の伍子胥(ごししょ)は「句践を許してはなりません」と強く諌(いさ)めました。そこで、句践は他の大臣にワイロを贈(おく)り、やっとその口利(くちき)きで許してもらえ、越に帰ることが出来ました。
その後、句践は部屋に苦い胆(きも)をつるし、毎日それを嘗(な)めてこのときの復讐(ふくしゅう)を心に誓(ちか)いました。
こうして、句践は国の回復(かいふく)に力を注いでいましたが、夫差の方は越の国には目もくれずに、北方(ほっぽう)に勢力を伸(の)ばそうとしていました。伍子胥はこんな夫差を諌めたのですが、それが面白くない夫差は伍子胥に自決(じけつ)を告げたのでした。
伍子胥はその使者に対して言いました。
「私の墓(はか)の近くに梓(あずさ)の木を植えよ。その木で呉王の棺(ひつぎ)を作るためである。また、私の目をくり抜いて、東の門の上に掲(かか)げよ。越の国が攻め込み、呉を滅(ほろ)ぼすのを見届(みとど)けるためである。」
こうして、伍子胥は自決しました。
さて、いよいよ国力を回復した越の国が呉に攻め込んできました。やがて、夫差は越に降伏(こうふく)することになり、使者を送って命乞(いのちご)いをしました。しかし、句践の臣下の范蠡が夫差を許さないようにと強く主張したため、とうとう夫差は自決し、呉の国は滅びました。
この話から、臥薪嘗胆とは復讐の為に耐(た)え忍(しの)ぶこと、また、成功するために苦労に耐えるという意味として使われるようになりました。
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