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>多様な価値観を認める日本社会ではなかなか難しい問題です。
>完全小選挙区制になるとすっきりした政局運営ができるかもしれませんが、
>二者択一式になじんでいない日本では(多神教の神道的感性がベースにある)
>なかなか一方の意見だけでやりとげるのは難しいでしょう。
「多様な価値観を認める日本社会」という命題はどの程度まで真ナリなのでしょうか。
たとえば、深夜まで仕事をした翌日に遅刻しても文句を言われず普通に仕事ができますか?自分に殆ど関係しない(どうでもいい)ミーティングへの出席をやんわり断れますか?校風が合わない等々の理由で子供を転校させることはできますか?1〜2週間の連続休暇が取れますか?レストランで自分の味覚に合った調理方法や素材をリクエストできますか?
言論の自由こそあったものの日本には実質的に選択肢が一つしかない(なかった)。余談ですがこれが作家崩れの都知事・県知事やプロパガンダ型の首相が人気を博した一因ではなかろうか?と。現実的には同程度に魅力的な選択肢が複数あるというより、「こうしなさい」「ああしさない」「あなたの成績・収入ならベストの選択肢はこれです」「いや、これしかありません」「他の人もこうしています(笑)」的なチョイスが多かったように記憶しています。
アメリカの場合、二大政党の択一とて各議員の理念や政策はピンキリで(日本の自民党以上、民主党未満)政党の区別などあってないようなものです。多様な価値観を主張しその意思を実現するkeyの一つは財力で、それを欠くと選択肢はありませんが、それでも複数の選択肢が物理的に存在するか存在しないかの違いは大きいと思います。
>>小泉政権は、景気回復、すなわち、デフレ解消と、不良債権処理のニ兎を追っている。
>>しかも、このニ兎は、相反するものである。こちらたてれば、あちらたたずの二兎である。
>
>少し前の毎日新聞だったかに、今の経済学・金融論では適切な処方はもはやないといった
>趣旨の論説がのってました。つまり今鋭く対立している処方策はどっちをとっても問題
>が残るという趣旨だったと思います。
>とかく頭のいい人は数字でものを考えますが、経済は数学であると同時に心理学でもあると
>思います。私自身、夏冬賞与0という事態においこまれ、生活様式をもう一度、というか
>おおげさにいえば転職をふくめて人生そのもをもう一度見直す必要にせまられてきました。
>私は日本人がみなこういったものの価値観やら考え方が転換されない限り、この度壺から
>の真の脱却は難しいのでは思っています。しかし脱却できたあかつきには、おそらく世界
>でもまれな国家に生まれ変われるのではないかと期待もしています。多生産・多消費によ
>る自転車操業国家でなく、無駄が廃され、世界の富を独り占めするような某国家のようで
>もないが、それでいてある種の満足感を覚えるような国家像を描いているところです。
精神的自由・多様な価値観が日常生活のあらゆる面に反映されていたら、いや百歩譲って同程度に魅力的な二択が常に存在していたら、日本の不況はあれほど深刻化しなかっただろう、というのがぼくの見解です。日本には抑圧されているニーズがあり、それを購う経済力を持った所得層がいます。さらにどんな構造不況業種であれ、最終顧客に必要とされている限り、名門の大手企業が傾いても一方で勢力を伸ばす企業は出てきます。
順当にいけば、現在のモノカルチャーから脱却した彼方にあるのは(程度の差こそあれ)日本のアメリカ化です。これは非常に強いトレンドだと思うので、その流れを潔しとしないなら、日本の指導者はアメリカでもヨーロッパでもなくそこに伍していける日本のビジョンを示さねばならないと思う。
デフレ不況に学術的な処方箋がないという考え方もありますが、そもそも、「朽木あるいは70歳の老人を無理やり若返らせよう」という発想(不良債権処理&景気回復)そのものに根本的な無理・矛盾・不可能があります。やっぱり安楽死(小泉流カイカク)or植物人間(小渕流バラマキ)の二択だろうとは思うのです。50代以上で後者を希望する人は多いはずです。ぼくの世代の意見は後者で、どう暴れても結局は次世代の肥やしにするのが自然の成り行きだろうと思っています。民族系でこの肥やしと新興勢力をどれだけ確保できるかで今後の日本国の税収(国力)は左右されると思います。
幸いにも今のところは自分の生活を心配する状況には至っておらず、塗炭の苦しみや痛みは実感できない部分がありますが、将来子供たちに「なぜこんな世の中に生まれてしまったのだろうか・・・?」などと思われぬよう、彼らが夢や希望を語りながら人生を歩めるよう頑張っていかねばと思っています。
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