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ここにおられる方々がイメージされている自由は、欧米直輸入型の自由ではないかと思っています。ご指摘のように自由といってもいろいろあるので、複数の「自由」を英語にトレースして、そのニュアンスの違いを明らかにしたいと思います。教養豊かな方々が多いと思われるBBSなので、「そんなこと知ってるよ!」と言われそうでヒヤヒヤですが、そう思われた場合には平にご容赦のほどお願いします。
>>ぼくのguessですが、永田町がどんな法案を通そうとニッポンの“自由”は守られますよ。ご安心あれ。
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> 何を根拠に、そうおっしゃるのでしょうか?
> それと、誰に対する”自由”なのでしょうか?
この文脈における自由とは「laissez-faire」。ニュアンスとしては(多少オーバーにいえば)自由放任=望む人が望むだけの自由を得られる世界=何でもアリ=無政府状態。
> 全体社会や国家としてのニッポンの”自由”は、たとえばメディア規制法案や
>有事法制ではより拡充されるでしょうけれども、一個人にとってはそれらは自由
>の規制ですよ。ひとくちに自由といっても、さまざまな自由があるわけです。そ
>してその自由は、あらゆるところで対立するわけです。どこかで線引き、バラン
>ス取りをしなくちゃいけないわけです。
ご趣旨は100%賛成です。ぼくもそれに近いことを言わんとしたつもりでした。
ぼくの大局的なビューをいえば、ちーさんが願っているのと(おそらくは)反対方向。つまり日本型の社会主義・共産主義は(ぼくは日本を定性的に民主主義・資本主義体制とは思ってません)10年前の旧ソ連の共産帝国のように滅びんとしている、というものです。事実、日本政府のパワー・求心力は明らかに落ちている。動かしがたい一つの証左が、強い政府のレゾン・ディーテルともいえる権限であり、かつ旧ソ連やアルゼンチンが喪失した権限でもある徴税権の低下(富裕層の某所への資産移転=限りなくクロに近い節税)。富の大半は限られた人が持っています。上澄みが逃げたら、所得再配分もヘチマもない。マシーンとしての政府の機能は急低下します。ぼくが思うに、永田町の焦りの本質的なところは(内政的には)そこらへんにあると思う。もっといえば、間違っても(失礼ながら人畜無害な)ちーさんが望む「自由」を剥奪する方向性ではないと思う。案外敵だと思っていて、実は味方かもしれない。いまの日本政府がやろうとしていることは、15年前の旧ソ連で有事法制・メディア規制を行う所業近いのではないか?というのがぼくのビューなのです。ナイアガラの滝は一本の杭では止まらない。大勢はlaissez-faireの方向。
抜き身のエゴが出たときに人々はいかにして救われるだろうか・・・と思ったとき、シルバーシートを外せるようなマインドが必要になるのではなかろうか?と。シルバーシートがおかしいと思ったのは直感的なフィーリングですが、あえて深層心理をほじくりリクツをつけるなら、そんな説明づけもできる感じ。
>>ぼくが外野から実に皮肉なことだと思っていることは、(勝者と敗者が存在する)自由な社会に進みつつあるなか、勝者になれそうな人ほど「日本人としての一体感が失われる」とあれこれ憂慮する一方、敗者になりそうな人ほど「自由を守れ」の一点張りで自由を支持しているように見えること。このBBSに自由推進派が多いことは承知していますが、各位が最終的にどこにグルーピングされるかはともかく、知人をざっと思い浮かべると大勢はそんな勢力図になる。
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> 何の勝者、何の敗者なのでしょうか。
> 財産を持つ者と持たざる者?
> 権力を持つ者と持たざる者?
> 幸せな人と不幸な人?
自分の境遇を幸せだと思うかどうかは高度に主観的なことでしょう。そこを埋めるためにも、シルバーシートをなくして温かいハートで埋め合わせるべきではないか、と。国運が右肩上がりになることは考えられないので、なにか埋め合わせるものがないと、ヒトが日本には住めなくなると思う。それはともかく、俗物たるぼくが勝者・敗者を語る以上、サブジェクトはmeasurableなことで、具体的には収入・資産・ステイタスの3つです。
ごくごく個人的なことですが、以前に高校の同級会に出て心底驚いたのが、同じ高校で学んだクラスメートの20年後の年収格差は10倍以上、資産格差で100倍以上だと容易に推定できてしまったこと。同じような格差は肩書き・ステイタスにもある。官民の大組織を動かすポストへの梯子を粛々と登っている人と、登れなかった人と、登らなかった人がいて、前者は雇用の心配を全くせず、後者は不確実要因を胸に秘めている。母校は典型的な受験校でしたが、ここに小学校のクラスメートを加えたらどうなるでしょうか。正規分布により近くなると思う。
いかに人生山あり谷ありとて、よほどのヘマをやらない限り(or死なない限り)、この年にして早くも突出した数名が、アドバンテージを持つ分野で追いつかれることは先ずないだろうと思われました。laissez-faireを所与の条件として、この先どうなるかを考えてみると、雪ダルマを雪山の山頂から転がすようなものかもしれない。大きいダルマはさらに巨大化して麓に達し、小さいダルマの大部分が中腹のどこかで埋没する。自由(laissez-faire)な社会の現役としての現場意見としていえば、自由を突き詰めた世界の果てはそれに近いものがあると思う。
ぼくだって、そんなあり方が正しいとは全く思わないし、日本人のバランス感覚は社会の荒廃を食い止めるに違いないと固く信じています。でも、いまのトレンドが続け、間違いなくそういうバイアスがかかりながらそういう方向に進むと思う。これはぼくの予測。現にぼくの同級生でそれほどの差がついているんです。
魯迅が書いた「故郷」の現代日本バージョンですよ。ホントに。
>>勝者予備軍がさらなる自由と規制緩和を、敗者予備軍がさらなる平等と規制を求める
>
> あれ?敗者が自由を求め、自由を支持しているんじゃないんですか?(汗)
> 上と正反対ですよ。
ぼくの観察では、日本においては、敗者予備軍が自由を求め勝者予備軍が平等を求めている。アメリカは上で引用されている通り(日本とは対照的に)勝者予備軍が自由を求め敗者予備軍が平等を求めている。アメリカ的な要求は個人の利益に沿っており、日本的な要求は個人の利益に反している。
・・・という趣旨のことを書いたつもりです。日米比較をしただけで、矛盾はしていないと思うのですが・・・。
政治の世界で「自由」というばあい、大きく2通りの概念(freedom&liberty)があると思いますが、この対照的な2つの概念が日本語ではともに自由と翻訳されてしまうため、その場の雰囲気で都合の良い方を選択する(日本的な)ムシの良さがあり、混同があり、二兎を追って一兎も得ないのではないか、というのがぼくの観察です。日本語で「自由」という場合、そのコンテンツを確かめないとその人の真意を見誤ると思う。経験上、ぼくに限っては、この種のミスコミュニケーションが実に多いのです。
「勝者予備軍がさらなる自由と規制緩和を、敗者予備軍がさらなる平等と規制を求める」
この文脈(↑)における自由はfreedom。自由=政府を信じない=小さな政府=減税を通じて強者に還元=米国共和党的概念としての自由=機会均等
。
一方で同様に平等はliberty(リベラル・・・ですよ)。平等=政府を信じる=大きな政府=公的支出で弱者に還元=米国民主党的概念としての自由=結果平等。
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