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山口さんレスをありがとうございます。
>多少汚い水のほうが栄養が豊富で多くの魚を養うことができる・・・と思う。門外漢なのでよくわかりませんが。上流へ上っていくのは大変です。そこに到達するエネルギーは膨大で、たしかに環境はいいけれども、栄養価が少ないから沢山の魚は棲めない。
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>下流で栄養価が高まりすぎると濁流が濁り、やがて川底にヘドロが澱み、川面でプランクトンが大量に浮き、最後には水の流れが淀むようになる。そうなると一切の魚が棲めなくなる。ヘドロが不良債権であり、プランクトンがたとえば既得権益にぶら下がって働きに相応しない分け前に預かっている人たちであり、流れない川が金融システム危機なわけですよ。
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>言わんとしたことは、太古の中国の大自然をイメージした水のロジックで現代を語るには無理があるということ。思うに当時は上流も下流も綺麗な水だったのでしょう。
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>慎ましく平々凡々と生きることを願う人にそれを全く許さない社会は問題だと思います。しかし、ノン・パフォーミングな部分に多少しわ寄せがいっても、パフォーミングな部分が報われる仕組みは必要だと思う。あくまでもバランスの問題です。アメリカは現在、貧富の差が縮小する方向に進んでいます。日本はその逆でしょう。でも、今後のことを考えると、あくまでも程度問題ですが、日本にとって必要なアジャストメントだと思う。
さてそうなのでしょうか?。
いわゆる小泉改革は国民を勝者と敗者に分け、勝者が敗者を支配し生き残ろうと言う国民2分化政策の側面を多く含みます。
また、その場合多くの国民が敗者に属するものです。
ここに、政治の目的である最大多数の最大幸福の実現と言う理念を見つけることは出来ません。
少数派の最大幸福のために多数に犠牲を強いることが政治の目的となるのならば、政治そのものが、不必要となるのではないでしょうか?。
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